10/22/2018

「説明責任」と"accountability"

 
こんにちは。公認会計士の山本です。
政治家や官僚の不祥事が起こると、
メディアや野党が「説明責任を果たせ」
と、大合唱を始める、ということがよく起こりますが、
国民のお金や権限を預かっている人間が好い加減なことをしているので、
責任を追及すべきなのは確かだと思うのですが、
そこは「説明責任を果たせ」ではなく、
「誠意を見せろ」
「そんなことをして恥ずかしくないのか」
と言うべきなのではないかと思っています。
「説明責任」という言葉は、
日本語の感覚としては、請け負った側が、一方的に、
自分の行動の正当性を「説明」する「責任」を負う、
といったニュアンスで使われることが多いように思うのですが、
「説明責任」の英語にあたる”Accountability”という言葉は、
モノゴト(特に人から人に委託しているモノゴト)が説明できる状態にある
ということを言っているに過ぎず、
請け負った側だけが、一方的に、説明する責任を負う、
ということとは違うように思う訳なんですね。
私の本職である「会計」という言葉は、日本語では、
「説明責任」という言葉とセットで語られることは、まずありませんが、
英語の世界で”Accounting”は、
”Accountability”を形作るための手段という感覚であって、
何が“Accountable(説明できる)”な状態なのか、
誰に対して“Accountable”であるべきか、
“Accountable”であることは、どうやって確認・証明・判断されるのか、
“Accountable”でない場合の責任は誰がどのように負うのか、
等々、
(日本人と比べると)“Accountability”を形成、維持するために、
膨大なエネルギーを注いでいるように思う訳なんですが、
それがない世界での「説明責任を果たせ」という言葉は、
そもそも「説明責任が果たされた状態」について 、
双方が合意した定義がない訳ですから、
何をどうやっても、説明されることがないんだろうな、
と思う訳で、
実際、「説明責任を果たせ」という要求に対して、
説明責任が果たされたことを、私は、一度として、見たことがなく、
時間の経過とともに何となく終息する、を繰り返しているだけなので、
一見すると、それらしい言葉ではあるのですが、
そこはやはり「説明責任を果たせ」ではなく、
我々の文化では、
「誠意を見せろ」
「そんなことをして恥ずかしくないのか」
と言うべきなのではないかと思う訳で。